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2012年7月 3日 (火)

岩手へ行ってまいりました・最終回 

野田村観光協会様の観光イラストマップがH24度6月版になりました。ぜひご覧ください。

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 イラストマップ左下、三陸鉄道・陸中野田から乗 り込んだ列車は「リゾート・うみねこ号」、週末や観光のトップシーズンにのみ走るイベント列車でした。八戸(八戸線)~田野畑(三陸鉄道)間の定期列車2往復を窓の大きな座席が両側の窓の方向に向かって設置されてる「リゾートうみねこ」と、三陸鉄道「36系レトロ調車両+36系一般車」編成にそれぞれ変更し、相互に乗り入れをしています。この「リゾートうみねこ」は指定席もあり、この日は被災地支援観光ツアーのお客様で満席でした。
 出発してからも、列車のスピードはあがりません。この列車の車内では解説のアナウンスが入ります。大きく被害の爪痕が残る場所や風光明媚な名所に差し掛かると停車、または減速して車窓からゆっくり景色を見ることができます。

 偶然なのですが、その日私が乗ったリゾートうみねこ号に、野田村観光協会の方が乗って取材していたようで…野田村観光協会のブログで陸中野田~田野畑までが素敵な写真入りでブログで紹介されていました。(クリックしてジャンプします)

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77車内アナウンス:進行方向左側、野田村の皆様の大切な財産のかけらをご覧いただいております」
 イラストマップE地点
のさらに奥、町はずれの中間処理場。野田村米田地区の災害廃棄物仮置き場がありました。

 コンクリート片、鉄片、家電類、木片…分別済みのものが集積されていました。また粉砕作業を行っている簡易施設もありました。遠目では冷蔵庫に見えていた山がお風呂の浴槽であることがわかりました。同じ浴槽でも、金属のもの、セラミック樹脂のもの、種類はいろいろで、それらもこれからおそらく人力で素材の種類を調べ分けていくのだと思います。
 鉄系の山にしても、鉄、アルミ、銅、これからそれぞれの金属の種類に分けていかなくてはならないのです

 

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 私は素人、ただの主婦の目から見た意見しか書けません。専門の知識もありませんので、瓦礫の広域処理問題などに意見できる立場ではないのですが~
 これは広域処理云々以前に…「燃やす」こと「埋め立てる」事よりも何よりもまず、分別することに膨大な時間と労力がかかると感じました。
そしてそれはまだまだ、途方もない時間がかかる。そう思いました。

 遠く九州まで運搬する費用は分別や再生処理の方に回した方がいいんじゃないの? 
 これが正直な感想です。
運搬と処理のコストを考えれば、広域処理はせいぜい半径500キロ圏内(具体的に言えば東北、関東、一部中部エリア)の自治体でのごみ焼却に余裕がある場所で行われるべきなんじゃないかと思います。比較的被害が少ない方である野田村の一部の処理場だけでこの量です。三陸沿岸部すべてのエリアのことを想像するだけで眩暈がしそうです。

 [各自治体で焼却炉を作ればいいじゃない]そんな意見も耳にしますが、地元にそれを処分するためだけの焼却処理施設を作っている場合ではないと感じました。処理施設を建てたところで、職に就ける人間は数年間限定で数人のオペレーターだけです。瓦礫の処理が終わった時点で焼却炉は不要なものになってしまいます。そして実際一番労力が必要なのは分別とリサイクルの部分です。(実際に焼却施設を建てたところもあるようですが。)
 そして、バイオマスなど、震災瓦礫の処理が終わった後でも地元でおおいに活用していける処理場の設置をするべきだと思います。原子力発電に変わる次世代エネルギーのためにも将来的に非常に有効だと思います。

 瓦礫で通学路がふさがっている訳じゃないし置き場所はあるんだから運ばなくてもいいんじゃない? そういった声もちらほら聴きますが、私はそれは違うと感じました。
 実際行ってみると、三陸は海からいきなり山もしくは崖(専門用語を知らずアホっぽい書き方ですみません。)という場所が多いんです。海から山までの間の平地が極端に少ない。道がふさがっている状況ではありませんが、人が住むすぐ近くに集積場や仮瓦礫置き場があり、人々はそれを目にしなから生活していかなくてはならないのです。


 
 
瓦礫の処理、町の復興、なかなか進まない高台移転計画、まだ検討段階の新しい防災計画、商業の復興、人口の流出…いろんな問題が絡み合ってもつれて「何から手を付けたらいいのかわからない」そんな印象です。こんがらがった糸をほどいていくのに進めやすいところから作業を始める、その糸口が瓦礫の処理だと思いました
 何度か書きましたが、「震災瓦礫=もと生活のかけら」です。
それがどうしてこんなに…
そこにあるだけでマイナスのオーラを発するのか

 爪は自分の指に生えている間は体の一部として何の特別な意識もなく、
「いつもあたりまえにそこにある」ものです。
 では「爪切りで切った爪や、やすりで削った爪の粉がテーブルに散らばってたら」。
想像してみてください。ちょっとぞっとしませんか?

 さっきまで、伸ばしたりマニキュアを塗ったりしていたのに、体から離れると自分の一部だったものにもかかわらず「いやなもの」になりませんか?
 髪の毛だって同じ。見栄えをよくするためにカラーしたりカットしたり。
でも美容院に行って切った後の毛が床に沢山散らばってるとちょっとゾッとしませんか?
自分や家族の抜け毛が部屋中にいっぱい落ちてたり、部屋の隅に毛玉になって落ちてたら…
 そんなイメージをしていただくと、この
震災瓦礫の放つマイナスのオーラの禍々しさを少し感じていただけると思います。

持ち主を無くした無機物が発する圧倒的な絶望と悲しみのマイナスのオーラ
 
とにかく、早急に効率よく処理しなければ。
 町が、人の心が病んでしまう。

 そう感じました。 

田野畑~宮古 

82田野畑駅から小本まではまだ復旧していないので、田野畑駅からは町営バスで山間の道を30分小本まで行きます。
 うみねこ号には被災地ツアーの方が沢山乗っていらして、その方たちは田野畑から観光バスに乗車されていました。そ​れ以外の一般客&一般観光客は先に進むにはどうしても町営バスに乗らないといけないのですが…この日は土曜日、バスに乗りきれないほどの一般客が。都心の朝の通勤ラッシュ並みにぎゅう詰めになった車内、くねくねの山道、小本までの30分間はかなりしんどかったです。
 田野畑~小本で目立ったのは酪農。このあたりでは牧草地ではない山間部に牛を放牧して育てる酪農を行っているところがあります。この山地酪農で育てられて牛のお乳は、夏はさっぱり、冬は濃厚なミルクになります。

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小本駅では1時間の待合時間。付近を散策します。海辺へは徒歩では往復するのに時間的に余裕がなく行くことができませんでした。駅前には岩泉の龍泉洞方面へ行く定期観光バスがありましたが、個人タクシーもありません。(もし行かれる人がいらっしゃったらご注意ください)小本駅は小本観光センターから入ります。初めて行った人は駅だと気が付かないと思います。小本駅とは表記が建物にありません。(これは珍百景レベル?)観光センターというにはゴニョってしまいそうな雑貨店の一角が切符売り場になっていて、階段で2階に上がり、廊下を通って3Fへ行くとホームになります。 小本から終点の宮古へは2両編成の三陸鉄道です。後方の2両目​は「てをつな号」でした。
 「てをつなごう」はマイ箸プロジェクトもアイテムを送る際に段ボールの4辺にラベルとして使わせていただいていました。それだけに愛着もあり、実際の車両を見たときは感慨深いものがありました。
 列車内は全国から寄せられた三陸鉄道への復興祈願の言葉やイラストなどが沢山飾ってありました。
鉄道ファンからは愛されていた列車なんですね。

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 ここから先、宮古までは沿岸部を離れ山間部を走ります。トンネルが沢山ある単線。懐かしく優しい風景が続きました。
田老の辺りは再び沿岸部を走ります。…土台以外全部流された住宅地が広がります。田老町はスーパー堤防の町としてご存じの方も多いと思います。(マイ箸プロジェクトでも、マイ箸、エコバックやマグカップなどお届けしてきました)

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スーパー堤防は高さ10m、総延長2500mの巨大防潮堤で、1960年のチリ地震による津波の時も、津波からの被害を最小限に食い止めたことで有名です。町の至るところに津波避難所となる高台への案内図が設置されていて、「昭和8年の津波の時はここの地点で10メートル」など、パネルがあり、住民は非常に高い防災意識を持って生活しています。
明治29年以来3度の津波から町を救ってくれた日本一のスーパー防波堤も、今回の3.11の津波では防潮堤を越えて地区を破壊しました。
田老地区の町はずれにも集積場が。もちろん、未分別。ただここに集めてある、そんな印象です。駅の駐輪場は屋根が流されなくなったまま残っていました。

93 宮古は山田線(宮古~盛岡)の乗継時間がほとんどなかったため、町を見る余裕がありませんでした。
山田線は単線、無人駅も多いローカル線。ひたすら夕暮れの緑の山の中を走ります。

 こうして駆け足の岩手・野田村の旅は終わりました。
見なければわからないこと、質問しなければ知らなかった事が沢山ありました。

 

強く感じたことは、三陸が次のステップに行くためにはまだ、元気で余力がある人たちのお手伝いが必要だという事。
 それはメンタルケアだったり、新しい街づくりへのプランニングだったり、新しい産業への転換の提案だったり、地域にによって様々です。
 野田村とのご縁、苫屋さんとのご縁…ハンドメイドで支援を続けてきたマイ箸プロジェクト、もう少し三陸の皆さんの「ものづくり」のそばに寄り添っていきたいと思います。

 つたない旅日記を読んでくださってありがとうございます。
一緒に旅をしている気分になっていただけましたでしょうか。

 次回は皆様から募集しましたグラスコ工房の作品のアイディアのご紹介と、福島の産科へお届けさえれたベビースタイのご報告をさせていただく予定です。

2012年6月29日 (金)

岩手へ行ってまいりました・その4 野田村

ダラスコ工房

 苫屋さんから村へ降りる途中、「村を守りながら倒れていった防潮林を使った木工小物」を作るダラスコ工房を訪れました。
この工房の裏手には湧水があり、水を汲みに訪れる方も多いんだそうです。

55 工房の入り口には看板が。作業所は「古狸家(こりや)」と名付けられています。朝の8時半から漁や仕事にでていないお暇なおじ様、お爺様方が集まって作業しています。
 最近建てられた小屋の奥に座って作業されているオヤジさんは仕上げのオリーブオイルを塗る作業に没頭されていました。この日は別の小屋で糸鋸の扱いの練習をしているオヤジさんと、やすりがけをしているオヤジさんと3名の方が作業されていました。
 クロマツは軽くてしなやかで加工しやすいけれど、完全に乾燥していないものは時間がたつと歪んでしまうとのこと。完全に乾燥するには2.3年かかるんじゃないかとのお話でした。
 前の晩、苫屋にてそれこそマイ箸を作れないのかという話になった時に、試作品を作ったけれど細いものほど歪みがひどく使いものにならないんだとか。
 試作品の中にあった小さなバターナイフ。パッと見見栄えもよく完成度も高かったのですが、それもどれくらい歪むのかを経過観察中だそうで。

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野田村・朝市

 イラストマップH地点、赤い大きな鳥居のところに朝市が立っていました。
(この朝市は毎月16日に開催されていると手元の観光パンフに書いてあります)
3.11にはこの鳥居の下に家の屋根がドカッと流れ着いていたんだそうです。H地点の鳥居の下から海方面を眺めると(イラストマップG地点)、復興商店(仮設店舗)が建っていました。
 朝市は海鮮類、野菜苗、花苗、生活雑貨などがあり、自家製のお餅やお豆腐を売る軽トラックもありました。
 自家製のお餅やお団子が売るおばあちゃまの屋台には、「しだみだんご」といって、餡がどんぐりからつくったアンコで作ったお大福がありました。白は普通のお餅、少し色の紫がかったものはお餅にキビが混ざっています。
野田村では古くから凶作に備えた救荒食として食べられていたそうで、独特の風味のある餡でした。同じ屋台で炭火で焼かれていたのは小麦粉とおからを混ぜたお団子を平らに伸ばし、くるみ味噌を塗って炭火で焼いたもの。このあたりの山ではクルミが沢山とれるんだそうです。もう一つ別の屋台で焼かれていたのが自家製の豆腐を串に刺してニンニク味噌を塗って焼き田楽にしたもの。このあたりではどの家庭でも大きな大豆を煮る鍋があって、節目節目に持ち回りでみんなの分の豆腐を作るんだとか。この自家製豆腐はそのまま串に刺しても崩れないくらいしっかりしたお豆腐なんだそうで、ニンニク独特の香ばしい香りが漂っていました。

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野田村保育所へ 

 マイ箸でクリスマスグッズやおもちゃ、マスクなどをお届けしてきた野田村保育所は3.11、ちょうど月に一度の避難訓練をするための準備をしている最中でした。避難訓練の場合、揺れから15分以内に500メートル先の高台の家へ避難する想定だったそうですが、園長先生が「『源平坂』に逃げろ」という言葉を思い出し、避難予定の場所よりもさらに500メートル先の高台を目指したそうです。

 

「こうゆうおもちゃで遊ばせたかったよね~」「これなんて、まずお楽しみ会で人形劇やってから子供たちに渡しましょうよ」「これ、ずごい!◎◎先生、見てみて!」「これでみんなでお店屋さんごっこできるわね」先生方も大興奮です。

 子供たちの命を守った先生方、本当にありがとう。

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68_2持参した箱からいくつかを取り出し、園長先生とお若い先生方が「日本のねー、遠いところに住んでいるお母さんたちが、みんなのために作ってくれたんだよー」と紹介。
みんなそろって「ありがとうございます!」
の元気な声。

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009_2_3道の駅・野田村の特産品

毎日10食限定で売られている「のだほたて弁当」を買うべく、三陸鉄道の駅に隣接している道の駅に。
お弁当をゲットして道の駅で物色。昨夜飲んだ山ぶどうワインに惹かれつつ、涙しながらその重さに断念(
ネットで買えることが判明 笑)。

 野田村の観光パンフから少しご紹介します:
山ブドウは野田村の特産品。ヤマセによる冷涼な気候と冬でも霜が降りる時期が比較的遅いことにより、通常よりじっくり時間をかけて熟成することで糖度が高くなるのが特徴なんだそうです。山ブドウは滋養強壮、貧血防止にも効果があるということです。10月には農園で山ブドウ狩りも楽しめるそうですよ。
 それからもう一つの特産品である[のだ塩]こちらもゲット。
のだ塩は江戸時代、北上高地を越え盛岡、秋田鹿角方面に運ばれ、米や粟とブツブツ交換されていました。牛の背に塩を積んで運んだことから行商人は「野田べこ」の愛称で親しまれ、運搬ルートである険しい山道は「野田塩ベコの道」と呼ばれました。海のない盛岡方面の人にとっては野田のお塩は冬の保存食を作るのには欠かせない貴重品だったんだそうです。
しかし昭和24年、自給製塩廃止によって数百年以上続いた野田塩の生産は一度幕を閉じます。
今は長らく絶えていた野田塩の歴史が村の青年たちによって継承され、伝統的な直煮製塩の方法で作られています。あいにく野田港にあった「のだ塩工房」は津波により流出してしまいましたが、今年2月、新しい塩工房が完成し、生産が再開されました。火入れ式の様子は野田村観光協会様のブログでご覧いただけます

69_2宮古方面行の列車まで、まだ時間があったので、海岸沿いを少し走ります。
陸中野田駅から1つ宮古方面にある野田玉川駅のちょっと先まで案内していただきました。
お昼には野田塩海鮮ラーメンをいただきました。

69_3 道の駅の2階は食堂になっていて、大きな窓からは三陸鉄道の陸中野田駅が目の前に見えます。お昼をいただいていると久慈方面に向かう「てをつな号」が。
 

0618_136 宮古方面行の列車まで、まだ時間があったので、海岸沿いを少し走ります。
陸中野田駅から1つ宮古方面にある野田玉川駅のちょっと先まで案内していただきました。

おおきなサーフボードを持ったのんちゃん像が目印。
山に向かってわき道を入っていくと、先にご紹介しました「のだ塩工房」、お隣は国民宿舎「えぼし荘」がありました。えぼし荘には野田村の避難所で生活されていた方々がお風呂に入りに来ていたそうです。そのえぼし荘からさらにちょっと上った先に下安家仮設住宅がありました。この仮設は野田中仮設よりも後に作られ、寒冷地仕様になっている、木造仮設です

71無機質なプレハブ仮設に比べると木材に温もりを感じられる仮設ですが、村の中心部からは車で15分ほど、少し生活はご不便そうです。と、ここで時間切れ。
T様に三陸鉄道陸中野田駅に送っていただき、お別れです。

 

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バタバタと大荷物を持って乗り込んだ三陸鉄道。
ホームに残るT様に手を振りながらちょっと泣きそうになりました。

でも泣かなかったのはなぜかまた絶対会える。そんなに遠くないうちに…と確信していたからです。
T様は遠くにいても、どこか心の奥底で絶対つながっている人だ。そう感じました。

マイ箸の皆さんもそうです。
お目にかかったことがある人、ない人。
お顔を知らなくても、つながっている人が沢山いる。

今回も長くなりました。
次回は最終回のご報告となる予定です。
読んでくださってありがとうございます。

2012年6月27日 (水)

岩手へ行ってまいりました・その3 苫屋

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苫屋

  パチパチと薪がはじける音。雨に似たザァザァという川の流れる音。囲炉裏の部屋にかかっている古時計がカチカチと動く音。辺りはそれしか音がありません。
ここではゆっくりゆっくり時間が進みます。
苫屋では灯りも、最低限の間接照明です。テレビも電話も…余計なものは全くない世界。
テレビを消せば、色んな時間が生まれるんですよ。ご主人がにっこり微笑みます。

42 夕飯は囲炉裏を囲んで私とオーナーご夫妻と3人でいただきました。
お酒はあまり得意ではないので、村の名物「山ぶどうワイン」を1杯いただきました。43_3

 写真は一の膳(左上から:ひじきの煮物、おから、煮豆、おひたし、お漬物。真ん中の大き目なお皿は山菜の炒め物。あえて書くことではありませんが、どれも新鮮で素材の味が濃く、とても美味しかったです。お写真を撮りそびれましたがこの後に、茶飯、さきほど囲炉裏で焼いていた鮭、お漬物、わかめとクワイ(たぶん)のお味噌汁、昆布の味噌づけのお膳がありました)。苫屋さんのお食事をいただいて、人間はこうして山や海やから自然から必要な分だけありがたく頂戴していただくのが本来あるべき姿なんだな、と思いました。

3.11、その後の事…

 本当にありがたかった。日本中の知らない誰かが手を貸してくれている、ありがたかった。と何度も「ありがとう」と頭を下げられる苫屋の奥様。
 マイ箸でお贈りしたマイ箸。どうしてマイ箸だったのか、その理由を聞いて『なるほどなるほど』とオーナーが大きく頷きます。
 
のれんやエコバック、枕カバー等をお贈りしたいきさつ話し、翌日保育所へ持って行くおもちゃを見せました。これはありがたいね、喜ぶね。嬉しいプレゼントだ。ご夫婦も手に取って眺めます。こういったハンドメイドのお品物全部に作った方のメッセージが入っていたんですね、どれだけみんな嬉しかったか…本当に喜ばれたと思いますよ。と奥様。

 紙に書かれた一言が人に元気を与え、時として残酷に傷つけることもある。
でも現実は明るく前向きな事ばかりだったわけではない、と奥様が思い出しながら…少し悲しそうな顔をしながらポツリポツリと話します。

 
4月。まだ皆が避難所で生活しているという状況で、苫屋さんにまだまだ半年以上先の秋の宿泊をキャンセルする葉書が届いたんだそうです。
 津波が怖いからいきません、秋の宿泊はキャンセルします。という言葉に、何とかこの震災を乗り越えて再建していこう、復興しようという気持ちが
一瞬で壊れそうになったそうです。

 「だってね、まだ4月に入ったばかりだったの。避難所生活が大変だった頃の話よ。もちろん宿泊がキャンセルでも構わない。地震が津波が怖いから行きたくない、その感情もわかる。でもね、『今、こんな極限のひどい状況で、三陸の…村の皆が苦しんでいる。このタイミングでなくてもいい手紙を届けに、わざわざ郵便屋さんがその一枚の葉書を届けるためだけに峠を越えてうちまでやってくるのよ。どうしても伝えなくちゃいけないとしても~津波が怖いから行けませんという言葉は残酷できつかった。本当に。」

また苫屋さんには野田村に直接届いた支援物資に対し「お礼状がない」という内容の分厚い文句の手紙が届いたこと。支援物資に対しお礼状を求めるのもどうかと思いますが、無関係の苫屋にそれに対する苦情の手紙が届くというのもおかしな話です。


発想の転換~ハンドメイドの輪

 苫屋にも沢山支援物資が届き、ご夫妻は仕分して村へ届けに行っていたそうですが、「帯も何もない化繊の着物が何枚も何枚も入ってたり、錆びて真っ赤な包丁やかけた急須が届いたこともあった」ようです。
 …箱を開けて、あぁ、これは村には運べない…どうしようかと。
善意で送ってくださってる送り主さんの気持ちはありがたいけれど、こんな冬の寒い避難所で帯もない化繊の着物はどう考えても(避難所には)持っていけない、持っていったところでそれを見た人はきっと私たちは乞食じゃないと怒ったり悲しい思
いをするんじゃないだろうか。そんなことで何度も悩んで困られたことも多々あったようでした。
 すぐに使えるものは村に持っていけばすぐに貰い手が出て引き取られますが、このような着物などは「貰い手もいない、かといっていただいた善意、捨てるわけにはいかない」どうしたものかと頭をひねった結果、生まれたのがグラシアの会という貰い手のなかった古着を裂いて、ヘアアクセサリーやストラップにして売るというプロジェクトでした。
新聞にも取り上げられましたが、このグラシアの会はやりましょう、と声をかけたのもネーミングも苫屋の奥様だったんです。


 野田村にある、まるきん大沢菓子店のブログ
グラシアの会が引き取り手の無かった古着を裂いて作っている梟のストラップの写真がありますので、のぞいてみてください。

 奥様が広めていったハンドメイドの輪。
今ではそれぞれの得意な分野を生かして5つのグループがあります。
 グラシアの会、ちよまの会、みずきの会、ダラスコ工房、福来豚チーム
この5つのグループを合わせて「しぶきの会」といいます。


 しぶきの会にはいくつか決まりごとがありました。


◎作業は必ずみんなが集まれる場所で一緒にすること◎

 個人宅に持ち帰って作業することはNGというルールを作ったそうです。
必ずおしゃべりしながら、集会所などの公共のスペースで作業する事。
自宅に持って帰ってしまうと「数をこなそうとして競争になってしまうから」だそうです。


 避難所の生活では皆が支え合って声を掛け合って暮らしていました。
それが仮設住宅に入り急に1人、2人になる。不安と孤独、欲しかったはずのプライベート空間だったのに、プレハブの壁1枚挟んだだけで、こんなに孤独になるなんて。そう感じない人はいなかったんじゃないかな、と奥様。

 何かを作ることに没頭していると、その時間は悩んだり思い出したりすることがなくなります。集まって作業する仲間がいることで孤独にならずに済む…。そのルールのおかげで、ふさぎがちだった心が救われた。苦しさを言葉にして互いに頷き共有する。作品が完成した喜びにいつの間にか笑い声が生まれ、それを聞いた人がなんだなんだと覗きに来て、私たちもやってみるかと考える。

ダラスコの会

ダラスコの会はまさに、「自分たちもやってみるか」と始めた木工作品を作るチーム。針仕事をするお母さんたちのチームに触発されて被災者自らが考えて始めたチーム。
 


 
そんな風に集まってね「何かやってみるか」と、自分たちから倒れたクロマツを使って何か作れないか考え始めてね…といって持ってきたのが写真のストラップと箸置き。
倒れた樹齢78年のクロマツを使って初めて糸鋸を扱うオヤジさんたちが、野田村のシンボルでもあるホタテをモチーフに木工小物を作って復興支援商品として販売できないか、考えて集まっているというのです。

 
糸鋸ややすりといった工具は、山の方にあった農家にあったので、そこにあった小屋を改造して、漁に出られず暇なオヤジさんや引退した方々が集まって朝から作業しているとのこと。
 これ、どうですか? 売れると思います? どうしたら売って
いけると思うかアドバイスしてください。私の前職を知ってアドバイスを求めてこられました。

 この会の設立由来と使用している松の由来を知っている人が野田村に来てこれを手に取ったら…じゃ、ひとつ。と買うことはあると思います。でも何も知らない人が買うかといえばNOだと思います。ストラップ、根付というものはもうあまり商品価値がない…いろいろお話しているうちに何か村のお土産になるような品物のアイディアはないでしょうか…と奥様。
 そこで前々回のブログでご紹介したとおり、群馬県T様の作った木製パズルを思い出し、こんなのどうでしょうという話の流れになった訳です。

44 インターネットを使えばきっと、販売ルートも広がると思うんですが、そうしてしまうことで作ることにノルマがかかったり、プレッシャーになったりしてはいけないと思うんです。時期が来れば仮設から出たいと皆思っていて、出られるならはまた漁に出たいと思っている訳で。広げすぎて「それで稼いでいこう」という欲が出てしまう事は不本意であると奥様…なるほど。
 今は野田村の道の駅や知り合いが経営する平泉の土産物屋さんに置かせてもらったりしていて、あとは全国から話を聞きつけた人が「買い取って今度のバザーで売るから20個作ってくれ」など注文をしてくれて作っているんだそうです。
突然電話で「1000個くれって言われても無理だからね、こうして買ってくださるという方が手紙を書いてきてくださって…これくらいのペースがちょうどいいんですよ」と。
こうして木工のアイディアと、パズルの図案は持ち帰ってご提案しますということになりました。


 でも正直に言って、商品化するにはまだまだ厳しい技術。
「素材はいくらでもあるからね、作る練習するのもまた楽しいんですよ。あーでもないこーでもない言ってると1日あっというまに過ぎちゃいますからね」

頑張れ!ダラスコのおやじさん!!

 もう一つ…苫屋さんとのご縁があって、静かに、静かにスタートしたプロジェクトがあります。ですがこれはもう少し目に見える形で動いた時点で、皆さんにご報告したいと思っています。

 いつの間にか壁の古時計が23時を過ぎていました。
こんなに夢中になって話し込んだのは久しぶりの事でした。

 苫屋のお風呂は母屋につながった増設された場所にあります。
少しひんやりする渡り廊下を通ってちょっと
熱めの湯をいただきました。

45 ご用意してくださったのは12畳の大きな和室。
寒さ対策で天井部分はいたが張られ、きれいにリフォームしてあるお部屋です。

静かな静かな山の夜でした。



苫屋の朝:出発

起床して囲炉裏のお部屋に行くと、オーナーが小さな音でラジオを聞いていました。
 昨夜は何とも感じなかった囲炉裏の煙が、朝はやけに目にしみます。ポロポロ涙がでてきます。お天気が崩れる時は煙が上にのぼらなくて、目にしみてしまうんだそうです。

47←煙がもやってる感じ。

朝ごはんはパン食。囲炉裏端で自家製のパンをトーストしながらいただきました。
自家製のベーコン、とりたてのはつか大根、ポテトサラダ。昨夜夕飯後に囲炉裏の灰の中に入れた卵は見事ポーチドエッグになって朝ごはんになりました。キャベツのサラダは奥様特製の山ブドウドレッシングがかかっていました。

 挽きたてのコーヒーもたっぷり。
決して贅沢じゃないけれど、豊かな朝食でした。

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50食事が終わるとご主人は縁側でクワの葉を揉む作業をはじめられました。カルシウムが豊富なお茶になるんだそうです。
その縁側には漁師彫りと呼ばれる木の飾り物がありました。裏側には『平成二十三年三月十一日 必ず元の古里に復興するぞ!エイ、エイ、オー! 岩手県野田村 漁師彫り』とマジックで書いてありました。

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46是非、村に降りる途中にあるグラスコ工房の小屋に立ち寄ってください。

朝9時半、そう別れ際に声をかけられ、迎えに来てくださったT様と苫屋を出発しました。

今回も長くなってしまいました。続きはまた次回。

 

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2012年6月22日 (金)

岩手へ行ってまいりました・その2 野田村~苫屋

Hさんのこと

 T様の計らいで地元のHさんに沿岸部を案内していただくことになりました。

 ウルトラ警備隊の隊長のようなHさん。地元のH組という会社の社長さんです。

 
ご自宅と会社は津波により全壊、現在はこの写真の野原になっているエリア(イラストマップJ付近)にありました。
 3.11当日はお仕事中で会社を離れていて、大きな揺れを感じ、ただ事ではないと思ったH
さん。ご自宅にカメラを取りに車で戻られたんだそうです。
 車をご自宅の方へ走らせていると、
前方に巨大な真っ黒い波とたくさんのクロマツがゴロンゴロンと転がってきているのを目にし、大慌てで車をUターンさせ九死に一生をえられました。(幸い、ご家族も会社の従業員も全員無事だったそうです。)
 

 夜になると緊急車両を通すのに道が通れない、なんとかならないかと連絡があり、従業員の家を一軒づつ回って「力を貸してくれ」とピンポンして歩き…と言った後、「停電してたからドンドン!なんだけどね」と言い直したHさん、集まった従業員と夜通し作業されたんだそうです。
 
季節は3月。停電の暗闇の中、ろくな防寒具も重機もないような状況、ご自宅も会社も跡形もない極限の凄まじい状況で村のために人のために必死に徹夜で作業されたHさん。
まさにウルトラマンです。

 T様はHさんのご自宅や会社流されたという状況も、
野田村の被害が久慈よりも数段大きかったことも知らず、ただただ野田村の状況が知りたくてHさんに「写メ送って」とメールしたそうで…

 
こんなすんごい状況で大丈夫?とも聞かず「写メ送れっていうんですよTさんが!」「嘘、大丈夫くらいは書いて送ったはずよ!」と、今ではお二人笑って話していらっしゃいました。こんな笑顔が出るまでどれだけ苦しい状況を乗り越えられてきたんでしょう。

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 第二堤防から第一堤防のある海辺までは、防潮林のエリアなので下が砂地です。
Hさんのジープに乗せていただいて視察しました。第一堤防は一か所、階段らしき大きなコンクリートの塊
(イラストマップC地点)が残っているだけで、堤防はすべて破壊されています。コンクリ片は再生利用するそうで、きれいに並べられています。
応急処置的に並べられた大きな黒
土嚢袋が臨時の防波堤なのでしょう。
 昭和8年の大津波を受けて、10メートルの堤防が築かれたのですが、次は12メートルの堤防になる予定だそうです。堤防の完成予定はH18年とのこと。まだまだ…先の話です。
 

 第一堤防と第二堤防の間はその78年前の大津波を受けた村民たちが、次の世代の村を守れるようにと村民自らの手で植樹したクロマツ(一部アカマツ)が防潮防風林として植えられていました。津波でそのほとんどが流され、今では20本程度がかろうじて残っています(イラストマップA地点。しかしその松も浸水し塩をかぶった影響で枯死しています。

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A_2 こちらの野田村のHPでは津波の後の空撮写真が見られます。

上記のイラストマップは野田村HPの空撮写真をもとに書き起しました。

海岸沿いに頂上に東屋が立つ小高い見晴らしの丘(イラストマップB地点)がありました。

B この丘の上に東屋を建てる工事をされたのもHさんということで、そこへ登ってみることにしました。
 丘は三階建ての建物くらいの高さでしょうか。以前このあたりはハマナスの群生地でした。
波が根こそぎ持って行ってしまったので
今はほとんどありません。丘に登る道の途中、1.2本残っていたハマナス。濃いピンクが力強く、生きるもののエネルギーを感じます。
 丘の上の東屋は欄干が一か所壊れています。中央には大きなテーブルがあったそうですが、今は波に流されて残っていません。この高さまで津波が到達していたんです。3.11以前はこの小屋はデートコースだったそうです。一日も早く素敵なデートスポットに戻りますように。


 

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D2_2 丘を降りて南にジープを走らせると倒れた松をまとめているエリアがありました(イラストマップD地点)
 3メートルほどに切り分けられた幹が積み上げられています。その隣には根っこの部分だけ集めたエリア。根っこには無数の鉄線(鉄筋住宅の中に入っているような直径2センチくらいの鉄の線。ぐにゃぐにゃに曲がっています)。外す作業をしている途中なのか、隣には鉄線の山もありました。

 さらに海岸を南に行くと整地された赤いコーンの立つエリア(イラストマップE地点)の向こうに大きく積まれた生活のかけらが無数に集まった山がありました。
大型ショベルカーの高さと比較してみてください。
手前のクリーム色の小屋は木片を入れて粉砕しチップ状にする機械です。ショベルカーで山からひとすくいして、手前のコーンのエリアに広げ、人力で8種類に分別していくんだそうです。気の遠くなるような作業です。

 

E 今年の2月下旬から3.11までの間に、朝日新聞で「今伝えたい千人の声」という顔写真入りの被災者のコメントが掲載されていました。
 野田村のあたりの人はほとんど岩手日報を購読されていると聞いていたので、もしかしたら…と、その記事で野田村の
のものを20人分ほど切り抜いて持参していました。集積場から元Hさんのご自宅があった場所へ戻りT様の車に乗りかえる際、その切り抜きをHさんに見せ「お知り合いがいたら、渡していただけますか」とお見せしたところ…あ、これ従兄のおじさん。この人、昨日一緒にバレーボールした。この人親戚の嫁…びっくりです。ほとんどお知り合いということで、切り抜きはHさんに託し案内のお礼をして別れました。


苫屋

 夕暮れ前に山道を通って苫屋さんへいかないと
…山道は街灯もないのでT様もほんとにこっちでいいのかなぁと不安顔。不安になるころ現れる「アジア民族造形館・苫屋」と書かれた看板を頼りに15分ほど車を走らせます。小さな集落が表れ、苫屋へ到着しました。

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36 L字の建物の中央、曲がった部分に紺色の苫屋ののれんがかかっています。
 
苫屋の前はザァザァと小川が流れる音と、どこか遠くで鳴く鶯の声しか聞こえません。車の音も、集落の生活音も全くありません。
 ここだけ時が止まってしまったような異空間…苫屋の印象です。茅葺屋根はH22年に青森の職人さんによって葺き替えられたばかり。真下に立つとまだ真っ白な茅が見えます。
 入り口には黒板があって、今日のランチ&カフェメニューが書いてあります「地鶏と野菜のトマトシチュー」「くるみとあんこのタルト」「チーズケーキ」…うん、おいしそう…

 と、ここで先に苫屋さんの宿泊案内を。

 
苫屋 〒028-8201 岩手県九戸郡野田村大字野田5-22

 ※電話はありませんのでお問い合わせ、ご予約はお手紙で。
 1泊2食6,000円(税込)/冬場は6,500円 1日3客まで。
 カフェ&ランチは午前9:00~午後6:00、月曜定休 予約不要
 ※お風呂は2.3人一緒に入れそうな広いお風呂があります。(タオルの用意はありません)
 ※町の中心から一日2本、最寄りのバス停までのバスがあります。
 お食事は囲炉裏端でご主人夫婦が無農薬・不耕起で育てた野菜が、創作料理にアレンジされたものがいただけます。
 電話はありませんが、docomoのみ圏内でした。

39

40 苫屋に到着した時にはご主人は畑に出ていらしたのかご不在でした。
 しばし、囲炉裏端でコーヒーを飲みながらT様と休憩しながらおしゃべり。   囲炉裏のそばの古い木炭ストーブをテーブルにした作業スペースでクルミを割りながら、苫屋の奥様も自然に会話に加わります。
 3.11のこと、避難所の事、仮設住宅の事…マイ箸プロジェクトのこと…。
あたりがすっかり暗くなる前にT様は帰らないと(迷子になるので 笑)いけないので、苫屋のご主人が帰宅した後お帰りになりました。

 この後、囲炉裏端でお夕飯をいただきながら、23時過ぎまで、苫屋さんのオーナーご夫妻と語り合います。

 今回も長くなってしまいましたので、次回へ続きます。

2012年6月21日 (木)

岩手へ行ってまいりました・その1 二戸~野田村

マイ箸の皆様が作ってくださったハンドメイドのおもちゃを持って、野田村へ行ってまいりました。1泊2日の強行軍でしたが、
久慈のT様の計らいで普通の観光ではお話聞けなかったような地元の方のお話も聞くことができました。
文章は素人ですので若干時系列が前後したり、余談&脱線もかなり含まれますが、
私とおしゃべりしながら一緒に旅をしてイメージで読んでいただけると幸いです。


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6月15日(金)

 自宅を出て4時間半、二戸へ到着しました。新幹線のホームがイメージしていた東北と
大きくかけ離れた近代的な
…まるで国際展示場のような…駅舎で少々面食らった管理人です。
 この二戸駅には東北新幹線の他、「いわて銀河鉄道線」という
盛岡から青森の三戸郡の目時駅まで走る在来線が乗り入れています。
こちらの改札も宇宙をイメージした紺と銀河をイメージした小さな☆があしらわれている

まるでプラネタリウムの入り口のような真新しい改札。
閉じられたシャッターしか目に入らない寂しい駅周辺の中で、完全に浮きまくっている
豪華な二戸駅の一日平均利用客数は2010年度で741人だそうです。
 んー…(と思ったら二戸駅ひとつ手前のいわて沼宮内駅は1日平均乗車人員は102人で、全国の新幹線の駅では最少人数)政治家様のお力添えってすごいんですね…。
こうゆうことができちゃうから「おらの地元のためにありがとう」で
一票入れちゃうんでしょう。きっとその政治家の政策なんかはきっと関係ないんでしょう。
3.11で何が起こって、どの政治家がどう動いたのかしっかり見て目を覚ませ!
って感じなんですが、きっとお目覚めにはならないんだろうな…。
(いきなり脱線してしまいました)

03二戸から久慈はJRバス・スワロー号で久慈渓流を抜け約1時間(1500円)。
スワロー号は1日7往復しています。近代的な大型観光バスでシートも快適。
乗客は私の他、地元の買い物客らしき叔母さま方が4人ほど。国道22号線を走ります。
風景は山の谷間の平らなスペースはおもに稲作、養鶏、畑。ぽつんぽつんと集落がります。
 途中茅葺屋根の古民家が何軒がありましたが、メンテナンスをしていないのか、震災で崩れたのか、廃屋になっている家がほとんどでした。
 茅葺の家以外は、明らかに震災で被害にあったと思われる家屋損傷は見当たらず
(もしくはすでに修復完了)、やはり今回の震災は「津波」の被害がほとんどだったんだな、
と感じました。
 久慈渓流のあたりはとりわけ緑が濃く、くねくねと曲がるトンネルの多い道。
久慈に向かっているというのに海に向かって走ってるという感覚が全くありませんでした。これは久慈市に入ってからもそうで、終点久慈駅のバスターミナルについても
「ここが港町」という雰囲気か全くありません。

久慈

駅ではお世話になっていたT様とご対面。
T様、今までよくぞお一人で支援物資の仕分けをされていました。
こんな華奢な女性が1年間パワフルに動いていたんだな、どっからそのエネルギーが
出てくるのかな…T様の第一印象です。
お目にかかるのは初めでですが、電話でお声を聴いていたので、頭の回転が速いやり手の方だなとは想像していましたが、ほんと、こんなに小柄な方とは(驚)

 ここからはT様の自家用車にてご案内いただきました。
 まずは遅めのお昼「一味心ひげ」にて。
前もって海鮮丼をお願いしてくださっていたそうなのですが、
海がシケ気味でよい魚が獲れなかったからお客さんには出せない(こだわりの店長さんですw)

ということで、地元でもレアな「短角牛レバーのステーキ」をいただきました。
店長の秘密の調理法で、お口に入れると蕩けてしまうようなステーキでした。
 「誰か特別なお客さんが来たら出そうと思ってたんだよ」そう言って途中、
メバチマグロのカマのお刺身の小鉢が出てきました。
久慈周辺で獲れるマグロはまだ子供で、本マグロになる前の子供のマグロを
メバチマグロといい、久慈で捕まらなかったメバチマグロが北に上がって、
有名な青森・大間の本マグロになるんです。

 

 マスターからは、久慈周辺の海産物のお話を聞きました。
 久慈で有名なのはまずウニ。「美人すぎる海女さん」でも有名ですね。
全国から観光客が集まるようになり、
小袖海女センターという観光スポットを2010年にオープンしたのですが、津波で全部流されてしまったそうです。
ご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、来年の
NHKの朝ドラ「あまちゃん」
宮藤官九郎さんが脚本で、都会から海女になるためにやってきた女の子のお話です。
架空の小さな三陸の港町が舞台ですが、撮影は久慈周辺で行われるようです。

 ウニ、というと私は箱にきれいに並んだウニしか思いつかないのですが、
このあたりのスーパーで売っているウニは海水と一緒に牛乳瓶に入って売っています。
食べるときはキャップを取ってざるにザーッっと開け食べるんだそうです。
ウニのシーズンは7月ですので残念ながらその本物を見ることはできませんでしたが、
スーパーでは同様に牛乳瓶に入ったイクラとツブガイを見ることができました。
他にはこのあたりではマンボウ、どんこ(エゾアイナメ)、イカ等ががよく獲れ食されるようで、鮮魚コーナーに並んでいました。
 地元のお台所事情を伺ったひげの店長は、久慈の道の駅にある食堂の立ち上げ時に厨房で腕を振るっていたそうです。当時は冷凍を使わず、その日とれた新鮮な素材だけを使って調理されていたとのこと。

 美味しいお昼をいただいた後、T様と久慈の沿岸部へ。

 久慈の中心部は(3キロくらい)海岸から距離があり、町の中枢が津波による壊滅的な
被害にあわなかったため、震災当時は岩手県北部の支援拠点になったんじゃないかと
推測されます。
 それでも、町を走る久慈川は逆流し、逆流した水が川の堤防を越え、町は冠水したそうです。
 T様がお勤めの事務所は県の災害対応の役割を担っており、
震災直後から岩手県北部復興の中心であったと思います。
 当時は非常食などの支援物資を隣の町(野田村)まで行くことができないほど
道路が寸断されていたとのこと。(久慈から野田村までは海岸沿いのルートと
山沿いのルートがあり、現在も海岸沿いのルートは部分的に寸断されたままです。)
 ご自宅は無事だったT様ですが、4日お風呂に入る事が出来ず、最初の4日間はインスタント食品ばかりで過ごされたとのこと。その時は気持ちも頭もいっぱいいっぱいで、お風呂に入ってないことなどあまり気にならなかったと。

10_03 久慈湾の北部には造船所と1993年に完成した日本国家石油備蓄基地があります。
石油備蓄基地は全国に3か所、久慈、愛媛、鹿児島にあり、各基地には日本全国で消費する3日分の石油が備蓄されているそうです。
 この久慈の備蓄基地は海岸沿いの切り立った山にトンネルを掘り、そこに石油をためておく基地でした。今回の津波によりこの備蓄基地の地表部は全壊、現在復旧工事が行われています。そのトンネルを利用して作られた観光スポット

「もぐらんぴあ(地下水族館)」も全壊しました。

 現在、もぐらんぴあは全国の支援者の手を借り、久慈の町の中心部に
まちなか水族館として規模を縮小して営業再開しました。
今では久慈の復興のシンボルとして存在しています。
 もぐらんぴあを訪れた子供たちが遊んでいたのでしょうか。
石油備蓄基地の辺りの海の見える公園は、遊具がなぎ倒されたまま、
雑草が生い茂っていました。せつない光景です。

野田村へ

  昭和8年にも村は津波に襲われました。
その時の津波の到達点と、3.11の津波の到達点はほぼ同じだったそうで、
S8年の大津波後、村人の手によって植えられたクロマツがなかったら…
村はもっと深刻な被害にあったと推測されます。

 こうして先人の知恵によって野田村の被害は最小限に食い止められました。
 


 経験は「大地震が来たら『源平坂』に逃げろ」という言い伝えとなり、
その言葉をしっかりと胸にしまっていた野田村の保育所の園児90人と職員14人は
「奇跡の脱出」をしました。過去の経験は津波に対する高い防災意識を生み、
保育所は毎月1回、津波などを想定した避難訓練を実施していたそうです。
(この保育所の仮園舎に16日、ハンドメイドのおもちゃを持って訪問しました)

12 

13_2寸断されている小袖海岸ぞいのルートではなく、山のルートから野田村へ入りました。
 まず訪れたのは、かつて町の中心であった場所。
写真の撮影ポイントからはかつて海が臨めなかった場所です。
 写真奥、うっすら見える海岸線。その手前に見える瓦礫の集積所は、以前はクロマツの防潮防風林地帯でした。手前の雑草の生えているエリアは住宅街…今は電柱1本、
街灯1本ありません。あるのは一軒だけ建物が残った壊れた岩手銀行の建物だけ。

16 町の中心部を離れ、まず向かったのは野田中のグラウンドに建てられた仮設住宅。
阪神淡路の時の仮設住宅と同じモデルだったため、昨秋には防寒仕様の手当てが行われたとのこと。
 4軒ほどがつながった長屋のような仮設が、グラウンドいっぱいに何棟か並んでいます。
訪れたのはひとけの少ない午後4時過ぎ。
プレハブは寂しげで無機質ですが、
どこかから寄贈されたプランターにお花がたくさん植えられているのがホッとします。
 玄関前には後から設置されたという玄関ポーチ(奥行50センチ幅180センチくらい)があり、一応2重の戸のようになっています。
 カメラを持ってあまりうろうろするのも気分を害されるであろうと思い、お写真は撮れませんでしたが、
明らかに見覚えのある「マイ箸からお贈りしたのれん」を
かけてくださっている家を何軒もみることができました

18 この仮設にはT様のご友人が住んでいらっしゃいます。
先月男の子をご出産されたご友人宅を訪ね、玄関戸をガラガラっとあけると…目の前のキッチンスペースにベビーバスが。(増設された玄関ポーチスペースから撮影。玄関あけたらいきなりキッチン、という仮設の不便さがよくわかります)
冷蔵庫と洗濯機が並んでおいてある小さなキッチンで
おばあちゃまが赤ちゃんを沐浴させている最中でした。
男の子と聞いていたので男の子向けの柄のベビースタイと鈴の音がするニギニギ(布製ガラガラ)をプレゼントしました。
 マイ箸の管理人さん、いろいろ荷物を送ってくださってた方が埼玉から来てくださったんですよとT様がご紹介くださると、本当にこんな遠いところまでよくきてくださった。いろいろよくしてくださってありがとう、とおばあちゃまが
目を細められていました。

20この野田中仮設は山に向う坂道の途中にあり、すぐ横が中学校の校舎になっています。その一帯は「中平遺跡」という遺跡群で、岩手県指定史跡第1号なんだそうです。
 時代的に古いものは縄文時代、新しいものは平安時代の物が出てくるんだそうです。
昔の人たちは海の怖さを知っていて、わざわざこのちょっと不便な高台に
集落を作ったのでしょうか。
中学校の校舎から50メートルほど上がったところにまもなく、仮設を出て家を建てられる方が住む住宅候補地がありました。

 

 区画は300平米くらいでしょうか。宅地造成する前に木を切って調査したら
竪穴式住居跡が3.​4つ、鹿を仕留めるための罠、土器などがでてきました。
(事前調査で掘ったら何かが出てくるところなので予想はできていたそうなのですが)
本来このように遺跡や史跡がでてきてしまった時には、土地の持ち主が発掘調査の
費用を持たなくてはいけないそうなのですが、その費用は1千万を超えるとのこと。
地主さんにもそんな費用は出せないし、かといって、遺跡を無視して造成することは禁止されている、仮設の人は、早く家を建てたい…という事で、この場所に関しては特例で村が調査費用を出しているんだそうです。

 この遺跡を現在発掘調査されている地元のH組の社長Hさんとこの遺跡で合流し、お話を伺いました。そしてこの後海岸沿いを案内していただくことになりました。

 

 長くなりましたので、今日はここまで。

ウルトラ警備隊のようなHさんの九死に一生をえたお話と、案内していただいた浜のクロマツエリア、瓦礫集積場の話は次回、近日中にUPいたします。

23ただ今、6月いっぱいまで野田村のダラスコ工房のオヤジさん達が作る被災地復興商品のデザインとアイディアを募集しております。詳細こちら

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今回の旅のお写真は全部、FBにて一般公開しております。FBユーザーでなくてもご覧いただくことができます。こちらを押してジャンプしてください。

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